「やっば!!」
急にラーイが立ち上がる。先程までと打って変わって慌てていた。
「クルーで思い出した。今、何時?」
「えっ…、15時になったところだけど」
時計を見ながら答える。ラーイは頭を抱えた。
「まずい……。すっげーまずい……」
勢いよくエセルの方を振り返り、
「ねえ、もう少し時間ある?」
不安そうに聞いてくる。
「えぇ。まだ大丈夫だけど……?」
「じゃあさ、もうちょっとオレに付き合ってくれない?」
一瞬、ラウルに頼まれた買い物のことが頭をよぎったが、このまま放って帰るのも気が引けた。
ほんの短い間しか話していなくても、この少年がかなり不敵な性格をしていることが分かる。その少年が困った様子で頼んでくるのだから、例え無関係でもエセルとしては見捨てることが出来なかった。
特別急ぐわけでなし、乗りかかった船ということでラウルには許してもらおう。
「良いわよ。どこまで行くの?」
頷いたエセルに、ラーイは明らかにほっとしたようだった。
「悪いけど、黄竜亭まで付き合ってよ」
「黄竜亭に泊まっているの?」
『黄竜亭』はガイアスでも有数の高級宿だ。王都に邸宅を持たない貴族や富裕な他国の貴族層が泊まるような宿であり、ただの旅人が気軽に泊まれるような場所ではない。泊まろうとしても丁重に門前払いされる。
そういえばと思ってよく注意してみると、ラーイの服も決して悪い布ではない。それどころか、かなり上等な部類の布地を使用している。
「そうだよ。泊まる所は多少高くても質が良い方が安全だからってクルーが」
各地でそういう宿を選んでいるとすれば、クルーという人物はかなりの金持ちだということになる。
貴族か、そうでなくともある程度自分の財産を自由に使える身分なのは間違いなさそうだ。
しかし、そんな人間が少年と二人っきりで旅をするというのはなんともおかしな話だった。一般的な貴族は──むろん例外はあるものの──召使も連れずに旅をすることなどありえないと言っていい。よほどの下級貴族なら別だが、各地で高級宿に泊まれるほどの財力があるなら召使を連れていない方が珍しい。かといって、この少年はどう頑張っても召使には見えない。
クルーというのは一体、どういう人なのだろう。
疑問に思ったが、エセルはその問いを胸に閉まった。
代わりに微笑む。
「さあ、では行きましょうか」
エセルとラーイは一路、黄竜亭に向かって歩き出した。
サラが教室の扉を開けると、一人の友人に声をかけられた。
友人のミレアは紅い髪と青みがかった灰色の瞳を持つ女性である。
「やっほー、サラ。どこ行ってたの?」
腰まである三つ編みの髪を揺らして、隣に座るよう促す。
彼女はサラが研究院に入って一番に話しかけてきた少女だ。年齢が近いことと、髪の長さで親近感を持ったのだそうだ。
「んー、図書室行って本借りて、屋上行って本読んでた」
あっさりとサラは言う。
「あー、あそこの鍵、壊れてるもんね」
同じようにミレアもあっさりと返した。
「そういえばさ、知ってた?」
「何を?」
「あそこの鍵の話」
サラは首を傾げる。
「鍵が壊れてるのは知ってるけど?」
身も蓋もない返答にミレアは苦笑した。
「そりゃあ、今行ってきたんなら知ってるでしょ。そうじゃなくて」
「じゃあ何?」
「鍵を壊した人の噂よ」
サラは形のよい眉をひそめる。
「知らないけど……」
言葉にしない懸念を分かってか、ミレアは明るく言った。
「先に言っておくけど、私じゃないわよ。私も人から聞いただけだから」
「じゃ、誰なの?」
問われてミレアは今までより少しだけ声のトーンを抑えた。
「今年5年になったSクラスのジンって人らしいよ」
「Sクラス!頭は良いのね」
Sクラスというのは研究室の中でも一握りしか所属できない特別クラスだ。
4年生と5年生のごく一部の選ばれた生徒だけが所属する最優秀クラス、それがSクラスである。噂に聞くだけでも頭の良さが尋常ではない。
Sクラス以下はA、B、C…と続く。Aクラス以降はどの年度でも必ず存在するが、Sクラスは該当者がいないこともあるのだという。
サラとミレアは現在3年のAクラスであり、実はSクラス入りは確実ではないかと噂されているのだが、それは余談である。
「なんでもそのジンって人はすっごい恐い人で、気に入らなければ目が合っただけで半殺しにされるとか……」
ミレアの言葉にサラは呆れたように肩をすくめてみせた。
「何ソレ。ありえなーい」
どことなく棒読みだ。はあ、と大きくため息を吐きつつ、ミレアは一応忠告した。
「それはジュリエッタのマネ?止めた方が良いわよ。また何を言われるか……」
本人には聞こえていないだろうから今回は大丈夫だろうが、いつ何を言われるか分かったものではない。
噂のジュリエッタは友人のカーリーと二人で窓際でなにやら話しこんでいる。
どうも髪の長い二人が研究院にいるのが気に食わないらしく、この二人は何かとサラやミレアにつっかかってくるので、サラもあえて反論はしなかった。
喧嘩を売ってくるかどうかはともかく、研究院の生徒の中には他にもそう考えている生徒が多くいるので、いちいち気にしてもいられない。
「で、そのジンって人の外見的特長とかは分からないの?」
戻ってきた話題に、ミレアはうーん、と唸った。
「さあ、そこまではちょっと。誰かに聞いてみる?」
逡巡した様子をみせたサラだったが、結局首を横に振る。
別にそこまでして知ろうとは思わない。
ただでさえ自分もミレアもあまり近寄りやすいとは言えないのだから。
研究院内では髪の長い人間は珍しい。それでもミレアは持ち前の明るさがあってさほど近寄りがたいというわけではない。
髪の長い人間の中には、髪の伸びない人を平気で見下すような者もいるが、ミレアにはそれがない。両親の髪が短いことや平民の出であることなどが要因だろう。
では、サラはどうか。
彼女も髪の長さや身分で人間を差別するようなことは全くない。差別するのは頭の悪い人間だけである。この場合の「頭が悪い」とは成績とかそういうことではなく、人間として、ということだ。ただし、こちらの方が性質が悪いと言えなくもない。
サラを近寄りがたくしている原因は他にもいくつかある。
まずはその外見だ。
髪が長いことは勿論だが、彼女の服装にも問題がある。
普通の人々とは少し違う……というより平たく言えば変だった。
本人にも似合っているのだが、デザインがかなり斬新なものが多い。
それに加え、口調がある。
物事をはっきりきっぱり言い放つ彼女は、一部からかなり疎まれていた。
慣れてしまえば気にならなくなるが、あまり親しくない段階で好き好んでそういう人物の前に立ちたいと思う人間は少ない。
さらには、彼女の出自があげられる。
サラの本名はサラスヴァーテ=ラケシス=フェイテス。
例えそうは見えなくとも、セカンドネームを持つ歴とした貴族なのだ。
平民はミレア──ミレア=フリーティンクのように名前と家族性しか持たない。セカンドネームを持つのは貴族のみで、さらに王族に近くなると親から受け継ぐ名前や領地名を持つこともある。王族になれば5つ以上の名を持つのが当たり前なのだ。
貴族の中には身分を笠にきていばりちらす者もいるし、そうでなくとも平民からすれば気軽に声をかけられるような存在ではない。
そういう事情もあってサラにはあまり近付く人がいないのだ。
近付いてみれば意外にザルな性格であることが分かるのだが。
ちなみに、本人は知らないが年下の生徒──それも少女達には密かに人気があったりする。近寄りがたいけれど素敵な女性……に見えるらしい。
サラはサラで上手いこと学院の生活を送っているのである。