森の中の道ともいえないような獣道を、一人の青年が歩いていた。
都会的な顔立ちをしており、少なくとも地元の人間でないことだけは確かだった。
旅装の青年はふと立ち止まって上を見上げる。木々の狭間から見える空はどこまでも青かった。
そんなに奥深くまで立ち入った訳ではないのに、一歩ずつ緑が深くなっている気がする。
踏み出すごとに強くなる自然のにおいだけが今の青年の連れだ。
周囲は侵入者を拒むかのような静かすぎる空気だった。
木漏れ日が彼の金の髪を照らす。
麓の村から目的地までさほど遠くないという話だった。盗賊や危険な動植物もない、平坦な道のりだ、とも。
歩いた距離から考えてもうそろそろ見えてもいい頃だと思い、顔を巡らせる。
獣道の先に小さな山小屋らしき建物が見えた。目指す場所はあそこらしい。
一息吐いて、止まっていた歩みを続けようとした、その時。
がさりという音と共に、木々の間から出てきた巨大な黒い塊が立ちふさがった。思わず我が目を疑うが、間違いない。
塊が頭をこちらに向けた。
目が、合う。
それは一頭のドラゴンだった。黒い鱗に爛々と光る黄色い瞳。森の中だからか、翼をたたんでいた。
こんな大きな塊を見逃したとは。驚愕と共に様子を伺う。
イカーン帝国の竜騎士が騎乗している種類のドラゴンだろう。ドラゴンとしてはそう大きくもないサイズだが、そんなことは何の気休めにもならない。
人間と比較すればその大きさの違いは歴然としていた。
襲ってくる様子もないものの、いつ相手の気が変わらないともしれない。
何が危険な動植物はない、だ!
内心毒づいて、腰の細剣を抜き放つ。ドラゴンの瞳が狭まった。
轟!という音が響く。
あまりの轟音に耳がおかしくなりそうだ。今のはどうやら目の前のドラゴンが唸りをあげた音だったらしい。
距離を測る。大股でおよそ5歩といったところか。走って先手を取るべきか、後ずさって距離を広げるべきか。
逡巡しているうちに、この場にはおよそ相応しくない女性の声が聞こえた。
「キャップ、どうしたの?」
ドラゴンの後ろから現れたのは一人の若い女性だった。十代の半ばくらいか、上に見積もっても二十歳には届いていないだろう。
落ち着いた雰囲気だが、まだ少女と言った方が相応しいかもしれない。
腰まであるつややかな紅色の髪が揺れ、ドラゴンに優しく触れる。ドラゴンは警戒したままこちらから視線を外そうとしない。
必然的に女性は視線の先を追う。
表情が一気に険しくなった。
「あなた、誰?」
「その前に一つ聞きたい」
女性は視線だけで先を促す。
「そのドラゴンは君が飼っているのか」
「そんなところよ。ところで、その剣をしまってくれるつもりがあるのかしら」
返答を聞いて、ようやく細剣を鞘に収めた。
「すまなかった。俺はスレッド。針の森の魔女殿にお知恵を拝借しにきたんだが……魔女というのはあなたのことだろうか」
針の森というのは現在二人がいる森のことである。
正確を期するなら、神が住まうとされるクレ山−その裾野に広がる森全てを針の森と称する。
クレ山は名だたる3大国──南のイカーン帝国、西のコンソール王国、東のダイアログ皇国の中心に位置しており、遥かな昔から不可侵の地とされてきた。
現在地はクレ山の南、イカーン帝国領である。クレ山は聖域だが、針の森は──少なくとも地図上では──接している国の領地という認識が一般的だ。
青年は針の森に住むという魔女を訪ねてきたのだった。ドラゴンを手なずけている様子から、目の前の女性がその「魔女」なのかと思ったのだが……。
「針の森の魔女?あなたの言うそれはおそらく母のことだわ」
でも、と言葉が続く。女性は傍らのドラゴンの頭をゆっくり撫でた。
「残念だったわね。母は三ヶ月前に亡くなったわ」
「なんだって?」
青年は目を見開く。それから慌てて「お悔やみ申し上げる」と頭を下げた。
「そうか、亡くなられたのか…」
その様子があまりにも残念そうだったのか、女性が首を傾げる。
「母を知っているの?」
「直接の知り合いではないんだ。ただ、両親が世話になったと聞かされていたから」
一度会って、話をしたかった。現在の状況を相談すれば、きっと道が開けると信じてここまできたのに。
肩を落とした青年を、女性は気の毒そうに見やる。
「もし時間があるようなら、家に来ない?せっかく母を訪ねてきてくれたのだから、おもてなしくらいするわ」
「そう…だな、そうさせてもらおうかな」
頷いた青年を先導し、女性はドラゴンを横に引き連れたまま山小屋の前まできた。
おそらくこの小屋を建てるために伐採したのだろう。小屋の周囲はやや拓けていた。
またね、と女性が声をかけるとドラゴンが名残惜しそうにその場を離れる。
案内された小屋は予想より大きかった。こんな森の中なので、もう少し小さな建物を想像していた青年は内心驚く。
通されたのは居間のようだった。部屋の中心には木製のテーブル、その周辺に同じく木製の質素な椅子が4つ。
壁際にはソファが置いてあり、その後ろの壁には鮮やかなタペストリが張ってあった。
暖炉もあるが、季節柄しばらく使われていないようだ。
誰かと住んでいるのかとも考えたが、家の中に彼女以外の人間がいる気配は感じられない。
「ここに一人で住んでいるのか?」
「ええ、そうよ。母が亡くなってからはね」
思わず尋ねた青年に気を悪くする風でもなく答えが返ってきた。
「しかし、危険では?」
身を案じると、苦笑される。
「この辺りに危険は少ないわ」
そういえば確かに、ここに来る途中の村でもそんなことを言っていた。
暢気なものだ、と思わないでもなかったが、ドラゴンがいるなら納得できなくもない。
わざわざドラゴンの縄張りで活動しようとする盗賊は少ないだろう。
しかも野生ではなく飼われているようだから、主が危険にさらされるということもあるまい。
「それで、母に何の用だったのかしら」
お茶と共に切り出された。席を勧められ、四角いテーブルの向かい合わせに座る。
差し出された香草茶を一口飲んでから、青年は口を開いた。
「半年ほど前に、ダイアログ皇国でクーデターが起きたのを知っているだろうか」
女性が唐突な話題に訝しげな表情をしつつ頷く。
「えぇ、皇王が病に倒れたすきに、王弟である将軍が事件を起こしたと聞いたわ」
ダイアログ皇国はイカーン帝国の北東に位置する国だ。国の代表者は皇王であるが、皇国民の代表である議会と共に国を治めている。
穏やかな治世を築いていた現皇王に反発し、近年、他の国々に武力で対抗すべきだと唱える王弟派が台頭してきた。
そして半年ほど前、皇王の病を理由に王弟が実権を握り、議会を召集することなく王宮を武力で鎮圧させ、今に至るらしい。
村に来ていた行商人から聞いた話を一通りまとめるとそんな様子だった。
青年は苦笑する。苦笑と共に滲み出ているのは悔恨だろうか。
「そうだな、大体正しい。俺はダイアログ皇国の出身で、そのクーデターに…巻き込まれたんだ」