旅立ち 〜start〜

 

いよいよだわ、と女性は考えた。
明日からしばらく、この家には戻って来ないだろう。
見慣れた自分の部屋は普段より荷物が少なくて、それが嫌でも気分を感傷的にさせる。
けれど、と更に思う。
自分に感傷は相応しくない。旅立ちに必要なのは期待だけだ。
これからの自分の未来に向けて、ようやく歩み出せるのだから。
王立魔術学院“ハク ”を大変優秀な成績で卒業した彼女は、その経歴を生かしてどこかで働くでもなく、また研究を続けるでもなく、錬金術を学ぶ事を望んだ。
彼女程の才能の持ち主ならば例え王宮でも厚遇される。
その腰まで伸びた色の薄い金色の髪を、人は憧れの眼差しで見るだろう。
いや、実際には彼女は働く必要すらないのだ。
社交場で相応しい夫を見つけ、家庭を守る事だけを考えていれば良い、そんな身分の娘であるのに。
彼女の生家、フェイテス家はこのワルキリエでも有数の貴族だ。
流石に王家の傍流程ではないものの、長い歴史を王家と共に歩んでいる。
この家は魔術師を輩出する有数の家系なのだ。
貴族といえども魔力を持つ家は何かと優遇される。
そうして中流貴族ながら、上流貴族に勝るとも劣らない地位を築き上げてきた。
その流れで、この家に生まれ、魔力を持った者はほぼ必ずと言って良い程西の学院“白”に入学する。
“白”には貴族層のクラスと一般の人々のクラスがあり、そのカリキュラムが異なっている。
貴族層は研究を主に行うのに対して、庶民は実用的な魔法を習う。
さらに、貴族の中でも派閥やらなにやらが存在し――彼女は魔術の道を究める気がなくなった。
そして、彼女は中央の国クロヌスの国立研究院に行きたいと願った。
もともと魔法よりも錬金術を学びたいと思っていたのだ。“白”に行ったのは家族の顔を立てただけである。
彼女は、まず彼女の姉妹に相談した。
家族の反対を押し切って結婚した姉は既に“白”を卒業している。
ただし、彼女の結婚相手は、家格にとてもつりあわない様な商家の息子だった。
さらにこの上、次女である彼女までもが家族の意にそぐわない行動をするのはどうかとも思ったのだ。
けれど、姉、さらには妹も彼女に味方してくれた。
妹はまだ“白”に通っている。彼女と同じく結婚適齢期だ。
いざとなったら自分が婿をとってもいいから、やりたいようにやればいい、と言ってくれた。
こうして姉妹総出で両親を説得し、ついにクロヌスの研究院へ通う許可が下りたのである。
いよいよ明日、彼女は旅立つ。
少なくとも研究院を卒業するまで、この家に戻っては来ないだろう。
距離的にも無理があるし、それ以上に気持ちの問題だった。
窓際で椅子に座っていた彼女は、そこで控えめなノックの音により考えを中断させた。
「ね、今ちょっと良いかしら?」
姉の声だ。彼女の問題を片付けるまで、としばらく滞在してくれているのだ。
「どうぞ」
笑いを含んだ柔らかな返事は、よほど彼女と親しくない限り、聞く事の出来ないものだった。
蝶番にもたっぷりと油を差しているので、この家の扉は音もなく開く。
そうして扉の影からのぞいた顔は、姉のものともう一つ。
「わたしも来ちゃった」
ふふふ、と笑うのは彼女の妹。
どうしたの?と表情だけで問うと、二人は顔を見合わせて微笑んだ。
「だって、しばらく会えなくなるんだもの。色々と話そうかなって」
妹は彼女にそっくりな薄い灰色の瞳を細めて言った。
「マリとわたくしも、話すのは久しぶりですからね。この機会に水入らずで話そうと思ったのよ」
とは姉の言葉だ。妹のマリ――マリオーネも頷く。
そうね、と彼女も相槌を打って、椅子を勧めた。
「それにしても、3人そろうなんて久しぶりね」
「ジーク姉さまが結婚して以来じゃないかしら」
長姉ジークルーネが結婚してそろそろ2年が経とうとしている。
その間、姉と妹など2人で会う事は稀にあったが、3人で会うのは始めてであった。
姉の里帰り自体がそもそも結婚して以来初である。
そんな姉は、彼女よりもやや色の濃い金髪を邪魔にならない様に結い上げている。
今は分からないが、解けば彼女程ではないにしろ十分に長い。
窓から入ってきた風が髪をさらりと揺らし、思いついた様に呟いた。
「髪を、切ろうかしら」
3週間の長旅とその後の生活を考えれば、長い髪は必要ない。
その呟きに、姉が提案した。
「良い考えかもしれないわね。そうだわ、私が切ってあげるわ」
「え、お姉さまが?」
マリも、彼女も驚いた。今まで姉が刃物を手にしている光景など、食事中のナイフくらいしか見た事がない。
そんな妹二人の反応に、姉は自慢する様な表情で言い放った。
「あら、わたくしが誰に嫁いだと思っているの?刃物くらい扱うわ」
姉が嫁いだのは商家で、しかも旦那はデザイナーをしている。刃物を扱えなければ話にならない。
いやだがしかし。
咄嗟にどう断ろうか悩んでいる隙に、姉はさっさと執事を呼んで鋏を持ってこさせてしまった。
予想外の行動の早さに妹二人はあっけに取られるしかない。
「さ、そこにお座りなさい」
妹の肩に薄布をかけ、姉は満面の笑みで座らせる。
仕方なく言われた通りに椅子に座った。後は、神に祈るばかりだ。
シャキン、と音がして一房が床に落ちる。マリが見守る中、存外危なげなく鋏を動かし、ジークは微笑んだ。
「これで良いわ」
「え、でもまだ…」
妹が不思議そうに声をあげる。それもそのはずで、切られた彼女の髪は後ろの一房だけが残されていた。
「全部を切ってしまうのはもったいないじゃない?」
だって、こんなに綺麗な髪なんだもの。
鏡で自分の姿を確認した彼女は、言われた言葉に苦笑する。
「ま、完璧に切るより、こっちの方が私らしいかもね」

姉と妹に別れを告げ、彼女――サラスヴァーテ=ラケシス=フェイテスはこの翌日、隣国クロヌスへと旅立った。

 

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