彼を呼ぶ声 〜the aureate asphodel〜
夢の中で、クルアーンはこれが夢だと自覚していた。
何故なら、目の前に広がる景色には確かに見覚えがあったから。
そこで、誰かが彼のことを呼んでいる。
その声も、彼には覚えのあるものだった。
ただ、この声の主の姿は、今は見えなかった。
仕方なしに辺りを伺う。
「…タナトス……」
少しだけ眉根を寄せ、クルアーンは呼び声のする方を向いた。
そこにいたのは、一人の女性。
ほんの少し──他の者には判らない程度に──目を細め、彼女を見る。
透明感のある長い水色の髪をさらりと風に流しているのが、ひどく印象的であった。
そしてまた、彼女が呼ぶ。
「タナトス…」
とても珍しいことに、クルアーンの心臓が一度、ドクンと大きく脈を打った。
女性の瞳が、じっとクルアーンを見つめる。
澄んだ瞳の中に秘められた想いが、クルアーンの心をゆっくりと揺さぶる。
「…何故、お前が」
淡々と、しかしどこか呻くように問いかける。
夢だと判っているのに、驚くくらい真剣になっていた。
彼女の瞳が自分を捉え、僅かに微笑む。
「…ニーナ」
彼女の名を口にすると、また鼓動が一際大きく響く。
もう二度と、呼ぶ事はないと思っていた名だ。
口にすると切なく、かつて封じたはずの記憶がまた鮮明に蘇ってきた。
夢、だからだろうか。
昔、彼女が本当に自分の前で微笑んでいた頃には、こんな気持ちにはならなかった。
どうして今頃、こんな夢を見るのだろう。
顔を背けるわけにもいかず、ただ黙ってその藍色の瞳を見つめてしまう。
「…迷惑だろうと、思ったけど」
「…いや、そんなことはない」
否定すると、嬉しそうに目を細めた。
その仕草に喜びを覚えてしまうことが、どうしようもなく切なかった。
記憶の中の彼女と、寸分違わぬ仕草。
あの頃自分はそれを見て何を思っていただろう?
幸福を、当たり前だと…思ってはいなかったろうか。
“失ってから気付く幸福”…そんな陳腐な言葉が頭をよぎり、クルアーンは小さく嘆息した。
「どうしても、言いたいことがあったの」
彼女の声に、俯きかけていた視線を引き上げられる。
「これが、本当に最後の機会だから」
彼女が何を言わんとしているのか、はかりかねたクルアーンは黙って続きを待つ。
「あの時、私を救ってくれて、本当にありがとう」
クルアーンは一度絶句し、そしてすぐに気を取り直して答えた。
「俺は、礼を言われるようなことは何もしていない。むしろ…」
苦々しい思いで口を開くと、彼女がそれを柔らかく遮る。
「そんなことない。私は、嬉しかったもの」
優しい言葉はごく細い針となって彼の胸を刺す。
「だが、俺は…。お前の為に、何もしてやれなかった…」
声が掠れて、自分が思いの外それを気にかけていたことに今更気づく。
彼女の話を最後に聞いたのは、風の噂。
どれだけ年月が経とうとも、この胸に刻み込まれた記憶は消えなかったということか。
噂は、彼女の悲運を伝えていたから、心の底でずっと後悔していた。
自分なら何か出来たかも知れないという浅ましい思い上がりと、結局どうにもならなかったのだという諦めとが微妙に入り交じり、ひたすら彼をいたたまれない気持ちにさせる。
ニーナは一歩、クルアーンに近づいた。
彼女の繊細な指先がそっと頬に触れて、思わず半歩後じさる。
「本当は、永遠なんて欲しくなかったの」
半歩の距離を保ったまま、彼女は言った。
その台詞が急すぎて、内容を理解するのに少し時間がかかった。
少しずつ意味を理解するにつれて、クルアーンは驚愕した。
「貴方を見ていられるなら、と思ったけど…」
それが出来ないと知っていたから、自分は彼女から離れなくてはならなくなったのだというのに。
「でも、もう駄目だったの」
そう言った彼女の顔は寂しげであったが、悲愴とはまた違う微かな光を帯びているようにも見えた。
「私、貴方がとても好きだったわ。…いえ、今でも好きよ」
その言葉の持つ純粋な響きが、クルアーンに目を見開かせる。
ニーナの微笑みが…そしてその存在が、夢だというのに−あるいは夢だからか−どこか儚く、今にも消えてしまいそうな…そんな気がした。
そしてそれ故に、何にも喩え難いまでに…綺麗だった。
「時間がなくなってきたわ…。タナトス、よく聞いて」
クルアーンは言われるままに彼女の言葉に耳を傾ける。
「私が約定を違えたから、次は貴方の近くにいる人に試練が訪れるわ。その時に、伝えて欲しい。間違えないで、と」
彼は軽く眉を上げ、問いかけた。
「…誰の事を言っている?」
ニーナは僅かに目線を落とすと、小さく、しかしクルアーンにはきちんと届く声で答えた。
「私の口からは、言うことができないの。でも、貴方には関係のある人よ」
それを聞いて現在自分に関わりのある者の顔を一通り思い浮かべてみたが、あまりピンとは来なかった。
「今は判らなくても良いわ。その時が来たら、きっと判るから…」
そうは言っても、忠告に従うことの出来る自信は彼にはまだなかった。
「私は、それだけを言いたかったの。次のあの人には、私の様になってほしくなかったから」
「お前のように、とは…具体的にはどういうことなんだ」
優しく、優しくニーナは微笑う。
しかし欲しいのはそんな不確かなものではなく。
「…変わらないわね」
「人の本質がそう簡単に変わるか。だから、訊いている」
「…知るべき時は、今じゃないわ。時が来れば、全てが分かる」
「それで引き下がれと言うのか…お前は」
渋面のクルアーンを見て、無邪気にニーナは笑った。
クルアーンは一つ大きなため息を吐いて、彼女の笑顔を見やった。
「でも、貴方は折れてくれるんでしょう?」
今度は軽く、ため息を。
確信的なその台詞を、否定出来ない。
お互いにお互いを判っているからこそのやりとりだと、クルアーンも理解していた。
「覚えていてね…。悔いがないわけじゃないの。でも…」
「言うな」
あまりにも強く遮ったので、ニーナは少しだけ驚いた顔をする。
対してクルアーンはこれまでに見せることのなかった、出来るとは思えなかったほどに穏やかな顔を彼女に向ける。
ニーナは再度驚いた表情をし、そして破顔した。
「人は変われないが、経験を行動の指針にすることは…出来るだろう」
「…前言を、撤回するわ」
クルアーンはいつもの無表情で彼女の言葉の続きを待った。
「やっぱり貴方、少し変わったわ」
目を閉じて口角をほんの少し持ち上げるだけの笑顔で、彼はそれに答えた。
くすり、とニーナは笑う。
微笑みが交差するゆるやかな瞬間、クルアーンでさえも永遠を思う。
「私が何故貴方の前に来たか、分かる?」
「忠告、だろう?」
「そうだけど、そうじゃなくて」
「…何だ?」
少しだけ、困った様にニーナが視線を逸らした。
クルアーンは少しも焦らず、ただ待った。
「…どうして貴方なのか、っていうこと」
彼は少しだけ目を瞠った。
「さぁな」
少し冷たくも聞こえた言葉に、ニーナは仕方ないというような表情をする。
「もう良いわ。貴方に聞いた私がいけなかったのよね」
その言葉に、クルアーンは自分たちがこの長い時間を遡ってしまったかのような錯覚を受けた。
むろん実際にはそんなこと起こり得るはずもなく、現実には何も変わりはしないのだけれども。
あの頃に抱いていた感情を思い出してしまい、クルアーンは目を閉じる。
「あ…」
半歩の距離を縮めようと、クルアーンが動く。
目の前に居るニーナの存在が、急に希薄に感じられた。
腕をあげかけて、自ら押し止める。
「ごめんなさい。…もう、時間切れ」
「!」
ニーナは自らの両腕を、クルアーンの首にまわした。
優しく温かい感覚に胸を締め付けられる思いで、クルアーンは彼女の細い躯を抱き寄せる。
「忠告も、お礼も、言いたかったのは本当。でもね…」
ニーナは少し潤んだ瞳でクルアーンを見上げた。
「本当は、ただ、会いたかったの」
そんな言葉を聞かされてしまっては。
「タナトス…」
クルアーンはぎゅっと固く目を瞑る。
不意に、一瞬口元に柔らかい感触を感じた。
一度は驚いたクルアーンだが、もう構わない。
くつくつと抑えて笑ってしまった。
今度はニーナの方が少し驚く。
けれどすぐに、楽しそうに笑った。
夢の中だから、なのかもしれない。
こんなにも自然に、二人笑い合っているのは。
しかしこれはやはり夢の中だから、終わりが来る。
ニーナの輪郭がだんだん淡くなっていくのに、クルアーンは気付いた。
彼女が「時間がない」と言っていたのを思いだし、彼はたまらずに呼びかける。
「待ってくれ…!」
ニーナの存在は徐々に辺りの空気に馴染むように希薄になってゆくが、彼女はそれでも嬉しそうに笑った。
「ありがとう…」
「…っ!」
最後のセリフと共に、ニーナの姿が溶けるように消えた。
クルアーンはしばらく呆然として彼女の存在した辺りを見つめる。
そこに上からふわり、と何かが落ちてきた。
それは差し伸べたクルアーンの手の中に優しくおさまり、柔らかに揺れた。
一輪の、黄金(きん)色の花。
その花はやがて来る何かの運命を示唆しているのだろうか。
だがそれも、風に吹かれてさらりと彼の手から崩れ落ちる。
微かな金色の粒子だけを名残にして。
クルアーンは自らの手を握りしめ、そっと瞼を伏せた。
周囲の色彩が少しずつ薄れ始める。
意識が急速に現実に戻り始めるのが判った。
握りしめた拳を胸にあて、その痛みと温かさに思いを募らせる。
朝はもう近い。
ニーナの忠告はしっかりとこの胸に留めておこう。
クルアーンは、堅く心に誓った。